ヒューストン、その変貌する顔
恐れ、愛、そして移民達の強さ
ダイナ・エング
人生には特に2つの感情があると確かに信じています。それは愛と恐れ。私たちファミリーは'70年代、'80年代にヒューストンで成長していきました。両親は中国からアメリカへ移住したのです。父は小企業を育てる機会があると聞き、サンフランシスコからバイユーシティに引っ越しました。
'70年代に戻ればアラブオイル禁輸が燃料価格を押し上げ、ヒューストンの物価はオイルマネーと同じく高止まっていました。アーバンカウボーイが通りを歩く一方、国際社会も形成されていきます。少なかった中国系アメリカ人の人口も増え始めました。父はヒューストンで中国系アメリカの友人達に加わり、小売り業を学び、アフリカ系アメリカ人やヒスパニック人の近隣で最初の食料雑貨店を買い取りました。
両親はともにそこで働き、大人になってからはその日の終わりに缶詰やレシートを棚入れする手助けをしました。私たちが暮らしたのは店の隣にある小さな家。そして治安の悪い近隣に暮らすことを考えないようにする一方で、周りを背の高い鉄条網に囲んだ家は不安を暗示していました。寝室は姉達と私の共有。
夜起きれば、ハツカネズミを追い払うために床をスリッパで叩くのです。捨て犬や猫は私たちの家に入る道を見つけているようで、いつも子犬と子ネコを飼っていました。私たちのまれな週末の楽しみは、バーガーとフライのファーストフード店への外出でした。たとえ家族が食料雑貨店を経営しても、母は我が家の調味料を長くもたせる為、ハンドバックに余ったケチャップとマヨネーズの小包を貯め込んでいました。
私の家は愛に囲まれていましたが、まわりの世界の多くは恐れに支配されていたのです。人は知らないものを恐れるもので、学校では見知らぬ故にいじめの目標になりました。スクールバスに乗ることは長髪を引っ張る男の子達から離れた席を見つけことを意味しました。振りかえって文句を言うのを、当人にすれば無邪気な遊びにしていたのです。廊下ではアメリカで生まれたのに、私を外国人と見なす人々から民族を揶揄する言葉で呼ばれました。
日曜日には他の中国系アメリカ人と交流し、チャイナタウンで結婚披露宴に参加することもありました。特に旧正月には、来客は私たちにレイシーを渡してくれます。それは数ドル札が入った赤い小封筒で、幸運をふりまき、感謝を示す伝統的振る舞いなのです。両親は母国語を学ぶために週末に中国系学校へ行くことを望みました。しかし、私は聖歌隊で歌い、学生自治会を運営し、美術館やロデオショーを見に行くことに興味がありました。 アメリカ人として定義さえる全ての活動にこそ焦点を絞ったのです。
移民の多くの子どものように、他の誰かとも同じでありたいと思う為、先祖の遺産を敬うことは難しいものです。しかし高校でジャーナリズム・クラスをとった時だけは、なじめないと感じる苦痛は消え始めました。オールAの学生はマイノリティのお手本という以上に価値があると理解する先生達がいて、このことは自尊心を引き上げてくれたのです。
学内新聞の編集長として、私のリードする友達のグループを見つけました。この数年間で父は最初の食料雑貨店を売却して次々と大きな店舗を構え、下層階級のコミュニティーのごたごたした近隣から、ジャジービレッジの中間層郊外に引っ越しました。父はヨーロッパ系アメリカ人コミュニティーであるジャージービレッジを選び、3区画を購入し、最後の区画に家を建てました。
更に近隣で数少ないアジア人にならないように、中国系アメリカ人の友人に2区画を売ってあげたのです。私たちが成長するに従い、ジャージービレッジの区域もしだいに広がっていきました。昨年、南アジアの事業家がジャージービレッジ市議会に立候補するのを見て大いに喜んだものです。当選はしませんでしたが、多様性の重要性を強調して演説したことに感動しました。
今日、ヒューストンはアメリカで4番目に大きな都市になっています。私達のような移民の流入は民族的な多様性を広げました。45%はヒスパニック、23%はアフリカ、7%がアジア系といったように。私たちがヒューストンへ移った時は、チャイナタウンだけ。大多数が中国語のやりとりで済みました。現在はアジアタウンとして知られ、中国語、ベトナム語、朝鮮語、タイ語、他のアジアの文化を反映したビジネスの拠点となっています。
点心(ブランチにレストランで伝統的に食べられる小皿の中華料理)は、以前は特異なものでしたが、今広く普及しています。ローストされた鴨肉やブタ肉は、テークアウト用がアジアンスーパーマーケットにあります。子供の時私たちが学んだ伝統は、家族の中に引き継がれています。母が亡くなった時、葬式に参列した人々へ25セントを包んだキャンディーを渡しました。(キャンディーは、人の死の苦みを甘くする目的であり、お金は光雲の象徴です)
父が亡くなった時には、彼が好きだった韓国ビュッフェで家族と友達での食事を主催しました。私は今日、身についた中国系アメリカ人の躾に感謝しています。中国語の読み書きを習わなかったことは残念に思いますが、両親が私に深くしみ込ませた文化的伝統は、今でも最も価値を置くものです。つまり家族、年長者へのリスペクト、他者を助けることにベストを尽くすことへの重要性に。
一方私の中にあるアメリカ的なものが学ばせてくれたものがあります。人生は可能性に満ち溢れ、私たちがみな異なる背景から生まれてきても、全てが良きものなのだということを。人と人の間に橋を渡すことは容易ではありません。しかし、それができれば私たちは他者にとって何がベストなのかを知ります。自分に似ていないとか、自分のように考えないことに対する恐れが、人々の間に見えない壁を構築することを知っています。
他者への恐れ、変化への恐れは偏見を生むことを経験しました。しかし、家族やコミュニティーで感じられる愛は、そういった心の傷を治す支援となりました。ヒューストンの変貌を見る時、同じ愛というパワーから、どれだけ大切なものが生まれてきたのかを知ることができます。この騒々しく多くの面を持つ街には、障害を克服し、他者を鼓舞し、心から心へ橋をかけ渡していくあらゆる背景の人々がいます。そういった無数の物語をどこにいたって聞くことで、彼らの一員であることを誇りにしているのです。
ダイナ・エングは、ヒューストンとロサンジェルス間で時間を分けて活躍するフリーランスの作家兼シナリオライターです。
翻訳:津坂 守英 @名古屋城北RC
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