Rotary8月号
自由の本質
自由と言語が行きかう場所でウクライナの著名作家は、自身の文学アイデンティティを考えます。
アンドレイ・クルコフ
ウクライナがロシアの侵入に抗して戦う現在、ソ連崩壊に思いをめぐらせ時を過ごすのは奇妙に見えるかもしれません。しかしその出来事についてよく考えることは意味があります。今日の悲劇の視点から過去を再評価し、私の態度の変化を刺激する予期しない考えが現われます。
1991年ソ連は古い廃墟のごとく物理的に崩壊していました。今やソ連を復興するというロシア大統領ウラジミール・プーチンの夢は砕け、ソ連の過去に対するノスタルジアは死に絶えています。明るい気持ちで1991年のあの日ソ連崩壊に遭遇したのです。
その国は1日1日と過ぎるごとに国民に新しい困難をもたらし、徐々に長い期間をかけ傷つきばらばらになり、消滅せざるを得なくなりました。その為新しい国家成立に道を作らなければなりませんでした。私は当時30歳。
自分は既に成熟していると見なしていました。高等教育を得て軍隊勤務を終え、エディターとして公的出版社で働きます。人生で最も重要なことは選択権を持つことだと常に信じていました。これは自由の本質です。選択はさらに自身を理解する機会、人生の目的、その中で自分の役割を与えます。
ソ連の社会では私とソ連のシステムの両方を満足させる役割を選べませんでした。学生の間、仲間の多くと同様に反ソ連のソ連国民であり、ソ連に関する多くが嫌いでした。しばしばソビエト体制の誤りについて共産主義の父親と議論しています。しかしこの体制を変更でき正しい姿になるとは思っていませんでした。
静かで物憂げな態度で父はソ連のシステムを常に擁護しましたが、議論すること自体が好きではありませんでした。彼は前向きな姿勢でソ連のシステムを捉え、このシステムこそが夢の実現を可能にするという信念を形作っていました。幼年期以来ずっと軍パイロットになることが夢で実際にそうなったのです。
指揮官の立場に昇りつめ、第二次世界大戦後にソ連の占領軍とドイツで数年を過ごし、その後ソ連へ戻りました。キューバのミサイル危機およびニキータ・フルシチョフの一方的武装解除政策がなかったら、大佐の地位に昇りつめていたでしょう。第三世界戦争の脅威に直面して、フルシチョフはソ連が平和を愛する国だと誇示したかったのです。
これは父が何万もの軍人と共に陸軍予備軍に送られて平和な生活を送ることを意味しました。この美しい平和維持のジェスチャーに対してフルシチョフに今でも感謝しています。それなしでは今日ウクライナ人ではあり得なかったでしょう。軍隊を去った後父は民間航空の仕事を捜し始めましたが、彼は幸運でした。
父の祖母はキーウで暮らしていて、そこにはソ連最大の航空機工場アントノフが民間旅客機および貨物輸送機を生産していたのです。テストパイロットとして働くように要請したのはこの工場で、そこで家族はウクライナへ移動しました。もっと正確にいえば、私たちはウクライナ共和国へ移動したのです。引っ越した時、私はまだ2歳にもなりませんでした。
ブドゴッシュ、母の故郷であり私が生まれたロシアのその村は、母親と母方祖母によって語られた物語によってのみ記憶に留められました。幼児期の私の記憶では、キーウだけが重要な役割を演じます。キーウとクリミアのエパトリアは、私たち家族が毎年夏期休暇を過ごした場所でした。ウクライナ人として以外の幼年期の思い出はありません。正直にいえばウクライナ国民としての記憶と称することは難しいことではありますが。
我々はソ連人であり、ウクライナと地理的に繋がっていたのです。当時その国のウクライナ人はフォークソングやダンスのみ表現されました。あたかもソ連共和国連邦が狭いエリアにおいて互いに異なるかのように。両親は生涯自身をロシア人と考えましたが、実は彼らは「ソ連国籍」の人でした。
ロシアではなくソビエト文化で育てられたのです。ロシアのフォークソングは歌いませんでしたが、ポピュラーなソビエト映画からの歌は好きでした。ウラジーミル・レーニン(ソ連創立者の1人)は小さな自国の歴史から、民族のルーツを切り離した特別な「ソ連人」を創り出すことに夢を抱きます。
もちろんレーニンはロシア人が「ソ連人」のベースと考えました。それは集団的精神構造を持ち、権威に忠実で自由より安定に価値を置く人を意味します。当然ソ連人はロシア語を話さなければなりませんでした。共通語なしでは、コントロールシステムは機能しないからです。したがって、ソ連の政治制度は初期の1920年代初頭ロシア語化の帝政政策を放棄しましたが、1930年代中頃にはこの政策に戻りました。
1920年代間違いなくあったウクライナ文化の劇的繁栄は、ウクライナ文化回復を推進した人々の大量処刑が起きた1937-38年に終焉を迎えました。1970年代のキーウでは、ほとんどの学校は全学科がロシア語で教えられたという点で、ロシアそのもの。「ウクライナの学校」は、門番およびコックの子供たちのための機関であり、野心を持たない学生でした。
ロシア学校の番号203では、友達の1人だけが家ではウクライナ語を話す家族の出身でしたが、学校では彼は他の全生徒のようにロシア語を話したのです。キーウで誰かがウクライナ語を話したならば、僻地の村からキーウに仕事で来たか、もしくは国家主義者と想定されていました。私たちは週に二度ウクライナ語を教えられます。
クラスメートの数人はこれらのレッスンを免除されました。ウクライナ語のレッスンから免除されているために必要としたのは、将来ソ連の別の地域への移動可能性からウクライナ語を学ぶ必要はないとする両親からの手紙で十分でした。私はウクライナ言語と文学クラスに行きましたが、それを楽しんだ記憶はありません。
不思議なことに、ウクライナ人の語学教師の名前や顔を思い出せません。教師が男性か女性だったかも思い出しさえしません。しかしロシア人の教師はよく覚えています。彼女の名前はベラ・ミハイロブナ・ボイツセコフスカヤ。彼女は大きな熱意でロシア文学を教えました。絶えずプーシュキン、レールモントフ、公に眉をひそめられたアンナ・アフマートヴァなどを朗読しました。
さて、私の記憶から消えたウクライナ語および文学の教師に関して考える時、あたかもその科目を教えるのが恥であるかのように、彼または彼女が可能な限り目立たないまましたのではないかと思います。ウクライナ語は当時禁止されませんでしたが、ウクライナ語を話す共産主義者や大学教授がいました。
キーウ外国語教育大学の学生だった時ウクライナ語で教えた教授、その人は伝説の翻訳者イルコ・コルネッツで、オスカー・ワイルド、ジェームズ・フェニモア・クーパー、ジャンニ・ロダーリその他の作家作品をウクライナ語に翻訳しました。不思議なことに私を教えた全教授のうち、今でも思いだせるただ一人の人です。
大学を卒業後ドニプロ出版社でエディターとして半年間働きます。そこでウクライナ語への外国小説の翻訳を編集しました。出版社内では誰もがウクライナ語で話しましたが、それはその場所だけの不文律の取り決めでした。同僚と仕事をするために歩いていた場面を覚えています。外から出版社のドアに近づくとき、私たちはロシア語で諸事を話します。しかし内側に入れば、自動的にウクライナ語で同じ会話を継続しました。ウクライナの言語を知ることで自動的に私をウクライナ人にした訳ではありません。
幼児期以来ずっとソ連のウクライナの首都に住んでいましたが、「ロシア人」とソ連のパスポートの国籍欄に書かれていました。独立したウクライナからパスポートを受け取った時、そこに「国籍」の欄はなく、カバーの上に金色で浮かし彫りした新しい自国の名「ウクライナ」があるだけでした。
どんな境界も横断せずに、私は新しい国にいました。私はたいして多くは変わりませんでしたし、選択の自由に対する態度も変わりませんでした。ロシア語で文学を書き続けましたが、自身をウクライナの作家と称し、そうみなしました。ウクライナ語を話す同僚の数人は、敵意を持って私のアイデンティティに対処します。
頑強に私をロシアの作家と呼び、もしウクライナの作家と呼ばれたければウクライナ語で書くように主張しました。'90年代中頃から2000年代中頃まで、このテーマについての多くの人(何百とまではゆかなくても)と討論に参加しましたが、意見を変えた参加者が誰か思い出せません。しかし同じ時期に何人かのロシア話す作家は、独創性の言語としてウクライナ語を使用し始めました。
現在の戦争は言語転換のニューウェーブを引き起こします。ウクライナのドンバス地域出身の有名なロシア語を話す作家ボルドミール・ラフェンコが、昨年ロシア語に背を向けました。この戦争で多くのウクライナ系の人々が日常生活でウクライナ語を使い始めます。彼らはもはやロシア語の必要を感じません。
アイデンティティの概念は通常帰属意識に関係しています。 共有される文化、歴史、言語を持つ特定のコミュニティーの国にあります。私自身は作家として母国語にこだわりつつ、ウクライナのコミュニティーの一部であると感じます。したがってウクライナの言語を知り、ウクライナの歴史、文化を理解する必要があります。今や個としてのアイデンティティの問題は、公の議論のメインテーマになりました。
前線の兵士はウクライナの歴史についての本を送るように友達に依頼しています。古典的なウクライナ文学および現代のウクライナの詩に興味に対する爆発的増加を見てきました。ウクライナ人は存在しないという声明を掲げたプーチンは、私たちが可能な限りウクライナ人として感じ行動する望みを刺激したのです。ウクライナ化のプロセスは今や止められません。
「ウクライナ人であること」は我が国を守るために強力な武器になりました。ウクライナ語は長い間広報活動に使用する言語でした。 ラジオ、テレビのインタビューおよび読者との集会のために。さらに私はウクライナ語で新聞とノンフィクションの記事を書き、今でもロシア語で小説を書きます。ほとんどの書店がロシア語の本を売ることを拒絶する今、私の本は国内市場でウクライナ語に直ちに翻訳されます。
道義的に、私の本がロシア語で出版されないという事実を覚悟しています。ロシア語は私の内なる言語となるでしょう。ちょうどウクライナ語が学校の友達の内なる言語だったように。友達は学校でロシア語を話すように強いられ、一方自宅では両親とウクライナ語を使っていたのでした。自分に正直になれば、ウクライナ人としてアイデンティティは母国語ロシア語より重要であることが分かります。
ウクライナ人であることは、特に今自由なことを意味します。私は自由です。この自由を駆使して例えロシアの政策のおかげで、ロシア語が「敵国語」のステータスに立ったとしても、母国語への権利を留保します。結局、ウクライナは存在し多くの生き生きと活動する少数同胞を抱える他民族国家であり続けます。クリミアタタール語、ハンガリー語、ガガウズ語および他の言語で書かれた文化、文学をそれぞれ内包しているのです。
私はこれら言語と文化をすべてウクライナ人の一部と見なす必要があります。異民族間のつながりの寛容さはウクライナの伝統です。平和になれば、そのような寛容さから溢れ出す調和は、我が祖国で更に広がるに違いありません。
アンドレイ・クルコフは、「死」「ペンギン」「灰色のハチ」を含む多くの著作がある小説家です。著書「リヴィウでのジミ・ヘンドリックスのライブ」は2024年1月に北米で発刊されます。
翻訳 津坂守英@名古屋城北
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