平和の虹

ある事実が起こりました。その五十年ほど後に元ボランティアは平和部隊での青春を回顧しています。

ランドルフW.ホブラー

 古くからのロータリアンである父のハーバートW.ホブラーは、第二次世界大戦で最も良き同僚ウォーリー・ウォーリングの死にひどい痛手を負いました。ふたりは共に太平洋でB29に搭乗していたのです。1945年6月7日後部射手ウォーリーは、ハワイでの休養の為にクアジャリン環礁の離島を後にしました。しかし超空の要塞B29は離陸直後に墜落してしまうのです。戦争の犠牲者として。

60年後配属される可能性のあった100以上の場所のうち、幼馴染ジョン・シーハンはイエズス会士の聖職者としてクアジャリン島に向かいました。海外に向け自らの時を調べ始めると、そういった類の偶然の一致が突然現れます。そして私的な旅の弧は、ウォーリーの死から2020年にようやく書き終え刊行した回想録執筆まで心駆り立てました。そういった幾つかの物語を伝えることにしましょう。

物語は1968年7月29日に始まります。その日29の州から108人がユタ州クリアフィールドで平和部隊の訓練の為、リビアからの31人と合流しました。私はその中でプリンストン大学を卒業したての訓練生でした。ほとんどは1946年生まれの第一次ベビーブーマー世代で、その世代同様に、不遜で反権威主義的な一団でした。

更に残念な期待外れもありました。4学年以来男子校で変化を望んでいたのに、女性の訓練生がそこにいないことが分かったのです。ただ平和部隊は女性達を養成すること自体は決めていました。独身の18人、夫または婚約者を同伴する43人達で構成され、その養成所は遠く900マイル離れたアリゾナ州ビスビーでした。

クリアフィールドの以前海軍補給基地での訓練では、文化的オリエンテーション、外国語としての英語のティーチング、アラブに関する4時間の授業を受けました。加えて8月にナバホの3年生に教育自習する為、ナバホインディアン居留地へ旅することになります。それは、文化的オリエンテーションでも予期せぬ授業となりました。ナバホ・ネーションへの出発の数日前のことです。兵舎で何人かがおしゃべりに興じていた時、リビア人のロッカーのひとつで光るものに気づきました。

それは何か彼に尋ねました。彼はびっくりしたようで、半分開いたドアを閉じてこう言ったのです。

「何でもない」

その答えでは済まされません。ついに彼はロッカーを開き、「銃だよ」と言ったのです。彼ひとりだけではないことも分かりました。「全員銃を買ったのさ。ナバホ・インディアンの場所に向かうと聞いたから」

何てことだ。リビアからの人達は、映画のウェスタンで見たインディアンを恐れたのだと思いました。ニューヨークタイムズ紙の見出しが頭に閃きました。平和部隊のせいでリビア人とナバホの戦争が勃発。私は当局にこのことを報告しました。しかし最善の努力にもかかわらず、銃を放棄するようリビア人を説得できません。考えあぐんだ当局は平和部隊本部に電話します。

まさにその翌日、世知にたけた古いワシントンの監督が到着しました。彼はミーティングにリビア人をすべて呼び出し、次のように言いました。「あなたがたの銃を直ちに提出してください。そうでなければ、リビア直行の飛行機に全員を乗せることになります」

ようやく彼らは銃を手放しました。10月11日クリアフィールド訓練生とビスビーの女性訓練生は、リビアの首都トリポリまでJFK空港からチャーター便TWA 707に乗り込みます。

独身の訓練生で、ジャンヌ・マーリーという名のかわいくて小柄のブロンド女性の隣りに座れて大喜びしたものです。長距離飛行の最後に、私たちは当地で一度連絡し合うことを約束しました。しかし、彼女がベンガジに配属されたことを知って意気消沈。 私が赴任する村から700マイル離れているなんて。ナフサ山脈にあるトリポリから85マイル離れた村、アルカーラまで小型トラックによって運ばれました。

そこには水道水と電気がありません。同じ旅でボランティア仲間ダン・ピーターズは、私の場所から数十マイル離れたアルカズルに降ろされました。私の仕事は二人の5年生に英語を教えること。ひとりはアルカーラ、もう一人は6マイル離れたウムアザーンに暮らしています。リビア人達は大いにもてなしてくれたので、アルカーラの最初の3週間は、家で夕食を食べる必要がありませんでした。

後にこれがDNAに深くしみ込んでいることを学んだのです。すなわち砂漠のベドゥイン人の法則。ほとんど毎週の通例になりました。

ダン・ピーターズが休日の前夜の木曜にアパートに姿を現しました。彼の村から10マイル余り歩いてきたのです。(私たちは後にイタリアのモトグッツィオートバイが支給されました)

小さな村では缶詰、肉、野菜、パンさえもなかったので、ダンは空のバックパックを持ち運び、アルカーラで揃えざるを得ませんでした。厚い眼鏡と厚い口ひげを誇示するダンは、ウィスコンシン州から来た粗野で真面目な農場青年にみえました。共通なものは何も持ち合わせていないと思えたのです。しかし彼はインドに暮らしたことがあり、世慣れた世界旅行者で、タフな男だったのです。

私の所へ歩いてきた時2度ばかり、ハイエナによって襲われ小石で退けたそうです。ほとんど金曜日過ぎから、多くの村を訪れるためにオートバイを何百マイルも乗り回しました。1月の休暇の間、チュニジアの至る所を訪れ、アルジェリアの歴史的な場所を旅しました。私たちは非常に気の合う旅行仲間で、一番の親友になったのです。

さてウムアザールでの授業の合間のある日の午後、アフメドという名の白髪の老人が私に近づいてきました。陸軍元帥バーナード・ロー・モンゴメリーと第二次世界大戦中にリビアで戦ったと言うのです。英国陸軍が英雄的行為に対して3個のメダルを約束したが、25年経ってもメダルは届いていないと訴えました。支援を求めたので考えあぐみながらも、英国ロンドン軍司令部への手紙を送ることにしました。

それから数か月に渡って、イギリスを横断して様々な場所を紹介する返事がやってきました。その後1969年1月25日に、アフマッドへの3個のメダルをようやく受け取ることができました。ウムアザールに急ぎ、目を溢れる涙で一杯にしたアフマッドの胸にメダルをピンで留めてあげました。その知らせは村を通り抜け、彼はウムアザール中を誇らしげに行進したのです。

次に歴史の一コマに触れたと感じたことがあります。その年の後半、正にそれを直接経験しました。1969年9月1日、ムアマル・カダフィーは国王イドリスI世を追い出し、リビアを占拠したのです。間もなくひどい混乱に陥り、その後私達は国外へ追放されました。

その前年、頻繁に文通を続けていたジャンヌに3回だけ会うことができていました。そこで二人で米国へ戻る途中フランスに旅行しようとしましたが、気まぐれなフライト・スケジュールに妨げられ、私の希望は無残にも跳ね返されたのです。

ニュージャージーの教師団体で奉仕期間を終えることに決め、一方ダンは教師としてウィスコンシンへ戻りました。幼馴染の恋人と付き合うことになったのに、4か月後牧師との礼拝会後二人は何と自動車事故で死んでしまいました。父と同じく私は途方にくれました。平和部隊の相棒として最高だったダン。彼は平和の犠牲者となったのです。

 

ランドルフW.ホルバーは『101のアラビアの物語;平和部隊リビアでの忍耐の日々』の著者。このエッセイはそこからの抜粋です。

 

翻訳:津坂 守英 @名古屋城北RC