Rotary10月号

ハーイ、イナ 私よ、イナ

ポリオ生還者そしてシカゴ著名レストランオーナーは、6歳の彼女自身に激励の言葉を贈ります

                    イナ・ピンクニー

生まれてから最初の記憶は苦痛の響きに満ちています。それが私。セントメリーズブランドの毛布からカットされたウール地の一切れ、それは戦時中の闇市で父が見つけなければならなかったものでした。熱湯のポットから引き上げ、ぐっと絞り細って弛緩した足にくるみ、次にぬれたウール地を覆うため乾いた布そして最後にオイルクロスを足全体に包みます。

 

そのクロスが冷めるまで延々と長い時間待ってから包みを解き、柔らかいピンクの肌をココアバターでマッサージしました。父は私が泣き叫ばなかったと言いました。してくれたのは父。1944年の労働者の日のこと、私は18か月でした。父はベビーベッド越しに腕を伸ばしましたが、立っていることができませんでした。

 

トライしても後ろに倒れました。額に触れた瞬間、高熱を感じました。父はニューヨーク市を席巻したポリオがブルックリンへ及んだことを知っていました。私を引き寄せてスナ医師に連れて行きました。彼は私たちの建物に住んで診察室を開いていたのです。体の横に私をしっかりと抱いて脊髄穿刺を行い、オフィスラボに急ぎ一番の恐れであることを確認しました。それはポリオ。

 

私たちはスナ医師の車で病院に向かいます。母は弟を身ごもっていました。そしてかわいがってくれたおじいちゃんは、癌にかかっていて一緒に住んでいました。そのため母は家に留まっていたのです。父とスナ医師は子供が一人残されるポリオ病棟を見て、親が週に一度1時間だけガラスパーテーション越しの面会を許される状況を知りました。そこで私を自宅に連れていき看護することにしたのです。あらゆる予防措置も理解したうえで。

 

インフルエンザに似た症状や熱がおさまった時、両親はマーチ・オブ・ダイムスに電話しました。麻痺していた右足に長い装具を装着し、皆が時間をかけて待ってみようと決めました。数か月後足を上げる能力を完全に失いました。そして装具は足を保護するためにギプスに変わりました。その間じゅう両親およびスナ医師は現状と戦いましたが、何ら有効なこともできず、全員が悲嘆にくれていたのです。

 

父はシスター・エリザベス・ケニーがニューヨーク市にいることを記事で読みます。兵役奉仕のシスターと呼ばれるオーストラリアの看護師の彼女は、自宅でポリオ治療をしており、処方する「ホットパック」治療が有用であるとしていました。筋肉がけいれんするため伸ばす必要があり、穏やかな運動を伴う湿性温熱法が助けになると唱えていたのです。

 

しかしながらアメリカ医学界の多くが、彼女とその理学療法の新しい概念を切り捨て、無視し、軽んじたのです。父はシスターを見つけるためにニューヨーク市の全てのホテルに電話をかけ続けました。ついに彼女の助手と話せましたが、医者達とのこれ以上の難事に関わることを避ける為、病院外で患者を治療できないと言われたのです。落胆して父は電話を切ります。

 

そして一晩中ベビーベッド脇の椅子に座り、私をじっと見つめていたそうです。翌日父は再び電話をかけ、シスターを私に会わせるためなら何でもしますと懸命に訴えました。ついに彼女は応じてくれました。自動車を借りて、マンハッタンに向かい大きな帽子をかぶった大柄な女性を乗せます。シスターケニーは前の座席に座り、彼女の秘書は後に座りました。

 

私たちの家へ向かう途中、シスターケニーは私の発症状況およびそれ以来行われたことに関して詳細を求めました。あたかも戦いに備えるかのように、彼女はあごを引き静かに座ったそうです。私たちのアパート前の縁石に駐車した時、シスターは「お子さんの医者はここにはいますか?」と聞き、いないと答えると「彼がここに来るまで、私は車を出ません。」と言ったのです。

 

父はスナ医師を見つけようと走り出ました。その後医師は私たちのアパートへシスターケニーをエスコートしました。母はドアを開けて皆に挨拶し、長い廊下を進み毛布とタオルでテーブルが覆われたキッチンヘ案内しました。私は壁を背にテーブルに座り体の前にギブスをはめた足を伸ばしています。シスターが私に挨拶する前に、はさみを助手に求めました。続けてギブスを切って、ごみ入れに向かってキッチンを横切ってそれを投げ込みました。

 

「骨折している訳ではないのよ!」彼女は叫びました。「これはポリオです!」それは熱湯から取り出されたウールの一片を使ったホットパック治療の始まりでした。一日に一度、時々二度。私は泣き声を上げなかったことを知っています。しかし私自身のくぐもった声の悶えるような響きを思い出します。

 

3か月後に歩きだしました。右足は2サイズ短かったので、短さを補うような足取りで歩きました。つま先のふくらみの上で歩いたので足がどれだけ短いか傍目には分かりません。走ることも、スキップすることも、ジャンプすることもできない。だから、めったに他の子供と遊びませんでした。ほとんど、建物の前の大きな木の下の集い場所に大人と一緒に座っていたのです。

 

女性達は台所用椅子を外に持って来、円を作って話しました。私は熱心な聞き手となり、その木の下で座り大人の会話を学びました。もし何か言いたかったならば、なるほどと思わせなければならない。そうすれば女性達が私に注意を払うようになることを知りました。そこで聞いたことがあります。映画館とプールはポリオの広がりを止めるために閉鎖までしていました。

 

障害を持つことは、死より手酷い宿命。人々は死ぬ為に病院へ行く状況だったのです。6歳までに、私は多くを知りました。他者とは違うという感覚は、その年でずっと明確になりました。からかわれることで混乱しました。大人の顔の表情に混乱し、自分の体に混乱しました。欠けている体に嘆き悲しんでいたのです。

 

そのうえ病院へ行くつもりだと聞かされていました。そうすることを知って、死ぬために家族にそこに連れて行かれると思い込んでいました。6才で命を失うという人生を悲しむなどとはできようはずもありません。したがって、このことで起こる全てを6才で受け入れました。家族が先日話題にした人は49才で亡くなっていました。

 

それでも私は恐れていませんでした。何故ならルートウィヒ・べーメルマンスの絵本マドレーヌが私を救ってくれたからです。女子生徒の彼女はフランスの寄宿学校の12人の少女の1人でした。彼女は他のすべての少女より勇敢で、完全に異なっていました。皆が動物園の虎にぎょっとし、一緒に縮こまっていたのに、マドレーヌは檻までまともに近づいたのです。

 

結局マドレーンは病院へ行くことになり、おなかに治療の傷跡をつけて出てきました。私も病院へ行き、足に治療傷をつけて出てきました。手術から覚めた時、家族は誤りをおかしたと思いました。私はまだ生きていて、2度目のチャンスが与えられたという不思議な感情を抱いたのです。マドレーヌへの憧れが心に飛び込んできたのはちょうどその時でした。彼女は私のヒーローでありロールモデル。

 

彼女のように、私自身でルールを作り、自分なりの人生を想像し、これから過ごす道のりを創りあげなければならないと思いました。私は常に成功したでしょうか。いいえ。しかしトライし、多くのことを達成しました。もし自分の人生がどんなものになるか、遡って6歳の自分に手紙を書くことができるとしたら。こう言ってあげるだろうと思うのです。

 

親愛なるイナ。この上なく困難な形であなたは人生を始めました。18か月でポリオに感染しましたね。そのことで社会から疎外され、無視され、排除され、いじめられる幼年期になりました。周りの誰よりも親切になることを理解する。そういった最初のレッスンを学ぶことになるのよ。転んで倒れた回数より多く起き上がらなければならないと、お父さんはあなたに教え込むはずです。

 

そして、海を二つに分けてユダヤの民を逃がしたモーゼのように、不可能を可能にする為お父さんはいつも寄り添ってくれます。成長してあなたはビル・ピンクニーと結婚します。彼は世界中を単独で航海します。それでも36年後、彼の最良の人生が海にあり、あなたの人生は陸にあると思い至った時、ふたりは別れを決めます。あなた達は各々結婚を始めた時よりずっと良き人となって結婚生活を終えるでしょう。そして、ふたりとも何故互いに愛し合うようになったかいつまでも忘れないでしょう。

 

あなたの人生の成り行きは小説を読むようであり、多くの人にとって夢のように思えるはずです。グレニッチヴィレッジでマヤ・アンジェローと親しくし、シカゴ劇場の舞台袖でミハイル・バリシニコフの額を拭いてあげ、フレッド・アステアに敬意を表して開催されたパーティーでフレッド・アステアとダンスをします。スカイダイビング、ホワイトウォーターラフティングそしてスキューバ・ダイビングに行きます。そして1本脚でアルプス山脈、ロッキー山脈でスキーをします。

 

イナ、あなたは恐れを知りませんが、無謀ではないのです。決して犠牲者ではなく、いつも自身の物語を紡ぎ出すエージェントと見なすことでしょう。あなたはアメリカ企業で居場所を見つけようと頑張ります。21の仕事に着き、そのうち19回解雇されます。でも、それぞれから必要となる何かを学ぶことで後々役に立つことになります。37歳で最初のケーキを焼き、そのことに不思議な刺激的な喜びを見出すでしょう。

 

ベーキングキッチンを手にし、ベーキングの方法を独学で学びます。そういったものが存在しない1980年に、デザートケータリングビジネスを起業します。1991年48歳でレストランを開き、過小評価を受けても大きなパワーが秘められていることを理解するでしょう。Ina's Kitchenは、シカゴで朝食の風景を永遠に変えることになります。ジュリア・チャイルドやヴォルフガンク・パックに提供し、アンソニー・バーディンから大いなる優しさを経験するでしょう。

 

多くのシカゴシェフがするように、有名人や政治家はIna's Kitchenに集まります。店はあなたの目の前で成長し、シカゴを世界一流の食事を楽しむ目的地にします。ついにはあなたの時代の先頭に立つ起業家として知られることになります。シカゴで喫煙禁止運動の先頭に立ち、グリーンシカゴレストラン協会を共同設立し、また思いやり、正確なスタンダード、途方もない意志力によって失敗しないレシピを作り上げます。

 

多くの幸せと悲しみをもたらす33年のキャリアの後、出口戦略を見出し知識と経験を使った新しく刺激的な道へ軸足を移すことになります。あなたは回想録と料理本を執筆します。(Ina's Kitchen: 朝食クィーンからの追憶とレシピ)それは受賞したドキュメンタリー(Ina's Kitchenの朝食)の題名になり、シカゴ・トリビューン誌では毎月コラムを書きます。

 

会社は会議に朝食に関して話すようにあなたを招くでしょう。そしてついには最高の朝食を食べることになるでしょう!長い間社会に溶け込むため全力を尽くすことで、ほとんどのポリオ生還者と同じく、普通の生活を過ごします。ポリオの後発的障害が打撃を与えても、うまく乗り越えられる新しい方法を見つけなければなりません。装具、杖、歩行器、そして今ならスクーター、車椅子といったように。

 

それでもあなたの人生は、喜びの源になるの。あなたが最も愛するものは、あなたを支えてくれる人達との関係です。特にロータリアン達との関係であり、あなたの物語を講演し共有することを依頼されるたびに出会うことになります。光栄なこととしてそれぞれの例会に臨むでしょう。そしてあなたはその名誉を受け入れます。何故なら成し遂げようとした全てに神の恵みを感じるから。そしてその時あなたはもはや6才ではなく、社会に属していないと恐れる必要はないからです。

 

朝食レシピの大家イナ・ピンクニーは、ポリオについてロータリー・クラブで定期的に講演しています。

  翻訳     津坂 守英@名古屋城北RC